対人恐怖症などの神経症(社会不安障害)を克服。不眠、頭痛、めまい、肩こり、対人恐怖、疾病恐怖、赤面恐怖、確認恐怖、心臓神経症、乗り物恐怖、閉所恐怖などで悩む人のための自助活動の場。

みんな悩んだ

「現実の不安を身体の不安に(不安・乗り物恐怖)」

名前 長谷川さん 性別 男性
職業 会社員 年齢 39才
所属 浦和集談会
症状 不安・乗り物恐怖

私が森田療法に出会い、発見会に入会して1年余り経ちました。まだ、学習不足でもあり、体験発表の機は熟していないのではないかと思いますが、発見会の学習でも総括の大切さを強調されておりますので、拙い内容を承知で「不安共存」のままに発表させて頂きます。

劣等生の自覚

終戦の翌年、群馬県の片田舎で、五人兄弟の末っ子と生まれました。私の誕生時、母と祖母との折り合いが悪く、両親にとって四面楚歌の状態であったとのことです。やむなく別居という形で、十一歳の姉以下四人の子供と共に無一文の状態から生活をスタートしたとのことで、長年の祖父母との葛藤の疲れを癒す間もなく、生計を維持していかなければならないという、背水の陣の状況にあって、とくに母は猛烈に働いたようです。そして五年後に、当時不治の病といわれた結核で死亡。
家計は大変な折しも、長男(兄)の進学期と重なり、成績優秀であった兄は、高校入試を二番で合格との結果を知りつつも、断念せざるを得なかったとのことです。そして、必ずしも子供達の賛成をえられぬまま、父は再婚と厳しい状況が続く中で、その父も間もなく結核発病、入院・手術と度重なる不運に、姉や兄が二十歳前後から、大黒柱として一家を支えなければならなかったのでした。中でも兄は高校進学のこと以来父との折り合いが悪く、同時に妹弟の親代わりをしなければならないという、困難な状況にありながら必死になって生計を維持する努力を続けていたのを、今にして思えば尊敬される思いで印象強く思い出されます。
そんななかで、幼かった私は、友達と遊ぶにも、結核感染を恐れる社会風潮の為、思うように遊べず、家計の大変な事情も、子供ながらに知っており、自分は皆と違うのだという差別感が、心の中で出来上がっていったものと思われます。さらに兄姉に比べ、学業成績が劣っていたために、成績表を家に持って帰るのが辛くてたまらなかったのを、よく覚えております。その反面、小学校卒業時に、家計を助けながら、良く働き、また成績もまずまずとのことで、模範生という理由で、表彰を受けました。兄姉中では最劣等と思いながらも、劣等生ではないではないかという、複雑な思いがあったのを記憶しております。さらには、義務教育九年間は皆勤と、今から思えば、劣等生でも何でもなかったわけです。
そして、高校進学時には私が進学したければしてもよいと兄は言ってくれましたが、兄の進学断念のことを考えると、とてもそれに甘える気持ちになれず、就職することにしました。
就職先は鎌倉にある会社でした。しかし進学への思いは相当に強く、定時制でもよいと思っておりました。会社にはいったものの、そこには、学歴によるゆるぎない階級的な組織があり、驚きと失望とが強くありました。やはり学校を出なければ駄目であると思い、定時制に通いました。それを続けるうちに、勉強するなら、もっとやろうと思い、進学のための高校に転校しました。
会社をやめ、上京し、アルバイト生活に切り替えました。そして思い通り卒業、大学進学と、この面では「強い生の欲望」そのままに生きてきたと思われます。しかし、結核感染の迷信の恐れによる村八分的環境、兄姉の中で最劣等、昼間部への進学が出来なかったことなどが自分の劣等感的差別感を根強く心に遺してしまったかと思われます。その反面、高校、大学では必ずしも劣等生でなく、むしろ上位にいながらも、その事実を認めることよりも気分的な発想が優先して、劣等感の方が残るという感じでした。

乗り物が恐怖の対象に

「これは大変なことになった!」という受け止め方で、強いショックを受け、そしてあわれふためいたために、翌日からは、外出、出勤が苦痛になり、出勤時になるとトイレに何度も駆け込むし、バス、電車に乗る時になると、極度の緊張状態を招き、すっかり乗り物が恐怖の対象となってしまいました。
何処へ行くにも、トイレが心配で、失禁恐怖、乗物、外出恐怖の状態になりました。しかし、これは心配が先に立つのだから、忘れれば大丈夫だろうと異物化した考えではなかったように思いますが、忘れるどころか、日増しに不安感が強くなり、それを無理に忘れようとしたことが、逆に、結果的にマイナスになってしまったようです。
 それ以来、失禁恐怖による外出恐怖、乗物恐怖にとりつかれたまま、それが日常化した時、いつからか不安そのものが不安となってしまいました。
 それでも会社は休まず、必死の思いで、バス、電車に乗り、一駅ごとに飛び降り、トイレに駆け込むという行動の繰り返しの中に、気分本位と、苦痛から逃げようとする姿勢の「くせ」がついてしまいました。
 本当に毎日が苦痛でありました。それでも、こんなことに負けてはならぬと自分にムチ打ち、(昭和)五十年には現在の自宅を購入、娘二人も生まれ、クルマも購入と、自分の精神的苦痛を除けば順調な生活設計の道を歩んでいました。しかし通勤距離が、それまでのアパートに比べはるかに遠くなり、苦痛は増加しました。

再び仕事で困難な問題に

先の銭湯での恐怖感動体験から五年後、再び仕事の困難な問題にぶつかり、職責を果たし得ないのではないかという強い不安と、上司との考えの違いのために折り合いが悪く、眠れぬ日が約半年間続ました。問題解決への努力、行動よりも、不安感に圧倒される状態となり、悶々として、ついには受話器も持ち上がらなくなり、不意に襲ってくる不安や恐怖感に、デスクに座っていることもできなくなり、トイレに行ったり、階段を上り下りして気休めを試みる日が続きました。
 仕事よりも、不安、恐怖感に振り回され、のたうちまわる状態でした。観念的に問題解決をしようとしたために、常に循環論理となり、焦るばかりで現実の問題は解決せず、上司との問題もあって、先輩に相談したところ、「それなら職場を変れ」とのことで、その先輩のいる職場に移ることになりました。
 「助けられた」と思い、恩返しの積りで必死になって仕事をしました。業績は上り、納得するものがありましたが、心の中には、困難な問題を自己中心的発想の逃げの形で解決したことに対して、自責の念が残りました。
 困難な問題に遭遇すると、不安感が先に立ち、それに圧倒され、自分の不安な気分ばかりを相手にして、現実の問題の根本的解決のための努力、行動がなく、逃げようとするばかり。そして観念的に問題解決しようとして、循環論理を繰り返し、焦って疲れ果てるという、結果的に見れば自ら招いた悪循環でした。

精神科を受診

そのうち、言いようのない頭痛、頭の中に重い何物かが張り付いたような感じ、わけのわからぬ恐怖感にしばしば襲われ、そのたびに逆上感や絶望感に陥り、いたたまれず、近くの精神科へ行きました。性格検査や脳波検査をした後に、「大丈夫、楽にしていればよい」というだけで、私の不安感、絶望感の質問に取り合わず、薬を投与するだけでした。
 最初の服薬の翌日、頭痛、頭重感や「もうろう感」がなく、熟眠感もありカラッとした気分を覚え、「治った!大丈夫だ!」と妻に話しながら喜んだものの、二、三日すると元に戻ってしまい、どういうことなのだろうと途方にくれたものでした。
 もしかしたら、長くかかるかも知れぬと思い、会社の近くの大学病院へと変えました。そこで「神経症」と診断され、「のんびり治すんだね!」と言われ、そのつもりで通い続けましたが、いつまで経っても治らない。焦りも出てきました。
 そんな時、今度は風邪をひいて電車にのっていた時、激しく咳込み、呼吸困難を経験しました。それ以来、失禁恐怖による電車苦痛に、呼吸困難恐怖も加わってしまい、電車は私にとって全くの恐怖となってしまいました。不安感に振り回され、疲れ果てて、眼窩はくぼみ、苦痛の表情が得意先の方からもわかったらしく、「どうしたの?」と言われ、途方に暮れるばかりでした。

本もこわくて読めない

常時不安感、外出苦痛、乗物恐怖、不意に襲ってくる正体不明の不安恐怖感に悩むばかりの日が続きました。その当時の日記には、「どうしたら解決できるのか?何が、何でこんなに不安なのか?不意に襲ってくる恐怖感は何なのか?」としきりに書いてあります。
 この頃から、もしかしたら「このまま発狂してしまうのではないか?」などと考え、逆上するような気持になり、苦悩しました。
それまでは、書店に行けば「心の安らぎ」とか「自信」とか「安心」などのタイトルの本ばかり買って読み漁りましたが、依然として効果なし。不安感だらけ。「神経症って何だ?」と思いながら百科事典を調べてみると、不安や恐怖の文字ばかりが目につき、読むことさえ恐ろしく、読んでもっと不安が大きくなるのではないかとおもうと、とてもキチンと読めず、不安感に振り回されるばかりでした。何とかしなければと焦り、一年間に七十万円もかかった民間療法に通い、あるいは写経、内観法、自律訓練法、ヨガ道場とあさってみたもののダメ。毎日ジョギングをやってみたりもしたが、結局はダメでした。
 そのうち、神経症ってノイローゼと同義語なのかも知れぬと考えるようになり、書店でノイローゼのタイトルの本をあさるようになりました。
そして一昨年の八月、東大教授の辻村明さんの『私はノイローゼに勝った!』という本を見つけて買いました。しかしノイローゼは恐ろしいものと漠然と思っていたために、本当にノイローゼだったらどうしよう?という予期不安が先に立ちはだかり、恐ろしくて読めず、そのままにしておりました。
 そして昨年十二月、過労が原因と思われる急性前立腺炎という病に再び罹り、しばらく会社を休んだ時、どうにもならない気持ちで辻村教授の体験記を読みました。そこに書かれている内容が、私の困っていることとそっくりなのに驚き、「ああ、俺はノイローゼだったのだ。これで俺も救われる!」を思い、安堵感を覚えました。同時に、大きな希望が出てきたのを鮮やかに覚えております。

初めて集談会へ

その巻末に森田療法の文献と施設の紹介があり、早速慈恵医大へ行き受診しました。その時の診断は、不安神経症であること、そして「生活の発見会」へ入ってしっかり勉強するように言われました。「どういうことなのか?」と思いながらも、早速『森田療法のすすめ』と『神経質の本態と療法』を買い求めました。すぐに発見会への入会手続きをとりました。そこで「浦和集談会」と池田さんの連絡先を教えられました。初めて浦和集談会へ出席する前日、池田さんに連絡し参加の了解をいただきましたが、当日会場への入室前に強いためらいがあり、やっとの思いでドアを開け、不安に圧倒されるような思いで着席。そして自己紹介。
胸の中は早鐘の鳴りっ放しの状態でした。その日は仕事がありましたので、自己紹介と質問、それに対するアドヴァイスを受け、『心の再発見』を買ったのみで中途退出しました。
すでに二冊の本を一応読んでいたものの、わかったような、わからないような状態でしたので、今までとはまた違った不安を覚えました。集談会の退出後会社へ行きましたが、その日はあいにくかなりの降雪があり、途中で電車が止まってしまったらどうしようと、「不安のまま」電車に乗り、夢中で『再発見』の本を読みました。健康保険の対象にならない項を読み、がっかりし、だから慈恵医大の先生は発見会へ入って勉強しなさいと言ったのかなと思案したりしました。
それでも翌日からは妻より先に起床して、「お茶」を入れたり、新聞を読んだりしました。それ以後、とりつかれたように森田関係の文献を片端からむさぼり読み、少しずつ、なるほどという気持ちになれ「考えているより行動だ」、「読書も行動のうちだ」と言い聞かせ、仕事以外は毎日が「森田デー」の如くになりました。
 これで救われるかもしれないと思うのと、本当なのかな?と疑いつつもとにかく、「森田・森田」の毎日となり、徐々に不安感に支配されるのが少なくなってきたように思われ、同時に仕事でも休日でも、どしどし体が動くようになって来ました。「仕事か・行動か・読書か」と非常に忙しくなりました。

行動への意欲が

そして、「不安の変身」の項を読んで、現実の不安から来る不安をすりかえて身体の不安とするという「神経症的不安のからくり」の実態を知るに至って、「ああ、そういうことだったのか!」と合点がいくようになりました。
 読み進むにつれて、自分が「神経質性格」であること、「生の欲望」が非常に強いが為に「死の恐怖」もまた強かったこと、「執着性」も強く「観念的」であったこと、「依存性」も強かったのだ。また、「感情は意のままにならぬ」から症状を相手にしてはダメであること、「行動が感情を変化させ得ること」、「不安の裏に欲求があること」、不安感情に支配された「気分本位の行動」の戒めと「目的本位」の考え方、行動をすること。日常の小さなことも行動で以て解決に当たれ。ビクビクハラハラしてもよいから、そのまま行動せよ!「生の欲望」に乗って向上的に行きたい願望を持っていること、人から好かれ認められたい欲求などなど。自分の欲求を正しく知りなさい。これらをよく理解し、自覚した上で「どう生きたいのか?」、創意・工夫、努力せよ。「神経質は病気ではない」。「認識の誤りと行動の誤りである」こと・・・・・・。などなど洪水の如く教えが出て来ました。
 それらは決して難解な理論や言語でなく、誰にでも理解出来る内容であり、教えでした。
「行動」即ち「実践」が結果として大切なのだということでした。何という教えなのか、驚きました。
まだまだ「症状を相手」とする「気分本位」ですが、どしどし行動する意欲が湧きました。しかし十年以上に及ぶ感情の「くせ」だけに、根強く残っており、一進一退です。そして森田と出会ってから「実践」出来たことを振り返ってみます。

実践できたこと


(1)、症状の事を言わなくなった。(言わないのも行動の一つである)
(2)、仕事上のやむを得ない時を除き、「集談会」へは全て出席し続けたこと。
(3)、毎日、「森田文献」とのかかわりを持てたこと。
(4)、毎月の「発見誌」を熟読し続けたこと。
(5)、本部主催の学習会(基準型)へ参加出来たこと。(これは森田理論のアウトラインを理解するのに、大いに役立ちました)
(6)、休日前に、予定を立てて何かをするということが出来たこと。(例えば洗車、買い物の手伝い、家の補修、庭の草取り、子供と一緒に遊ぶことなど)
(7)、就寝時間は、原則として夜十時前後に実行出来た。
(8)、理容も一人で行くようになった。(それ迄は行かずに妻にやって貰っていた)
(9)、通院時の急行電車に乗るようになった。
(10)、家族や会社で心配してくれた方に、立ち直れると報告したこと。
以上、大雑把ですが実行出来ました。そして、六年余り服膺し続けた抗鬱剤が抜けました。
まだ、安定剤を服用しておりますが、徐々に薬物依存が薄らいでいくものと思うし、積極的に努力しようと思います。まだまだ症状が顔を出し、課題もあります。思いつくままに、今後の目標を掲げてみますと、

今後の目標


(1)、森田文献へのかかわりを毎日持つこと。
(2)、症状をお酒で紛らわすことがあるので、それを止める為に「禁酒日」を作ること。
(3)、夜十時の就寝時間を守り続けること。
(4)、集談会の「図書係」をキチンとやること。
(5)、安定剤服膺中止へ努力すること。
(6)、急行電車に乗ること。
(7)、症状はあっても仕事は出来るのだから、毎日、休まず、遅刻せずに仕事をキチンとすること。特にデスクダイヤリーの活用で、仕事を計画的にやること。
(8)、家族サービスをし、夏休みに家族旅行を計画・実行すること。
  などが、大まかですが挙げられます。

どうして神経質症になったか

 そして、最後に私が神経症に陥った原因を考えてみますと、
① 困難な問題に出会い、適応不安を感じた時、これは大変だと受け止め、不安感情に振り回されて慌てたこと。
② 問題解決が「逃げ」の方法を採ったことによる誤り。
③ 不安を相手に、これと戦い「不安を取り除こう」としたこと。
④ また、問題解決のための努力を、「気分本位」で考え、実行しようとしたこと。
⑤ それが、「観念的なかくあるべし」を先立たせ、現実を正しく見つめるという「事実唯真」の考えと正反対であったこと。
⑥ そして、本の抜粋になりますが、水谷啓二先生が辻村教授にアドヴァイスした言葉。それは、「あなたは自分が重い病気に罹っているという、間違った観念のとらわれからはほぼ解決したようだけれども、問題はそれでおしまいなのではない。あなたが不安神経症になった根本にはどこかに甘えた、あるいは、片寄った生活態度があって、恐らくその為に、あなたの社会生活、もしくは人間的成長に一つの行き詰まり、あるいは停滞が生じていたはずである。その往く詰まりの不安感による旨の苦しさ<これは何か病気のせいに違いない>という観念的思考が結びついて、不安神経症になったものと思われる・・・・・・<またこのような苦しい発作が起こるのではないか>という観念的な予期恐怖によって、自らそういう発作をしばしば引き起こすようになった者であろう・・・・・・自分は病気だという誤った観念のとらわれから脱皮するに留まらず、さらに進んで甘えたところのある生活態度、或は片寄った生活態度から脱却することが必用である。それには自分の不安や苦しみについて家族の人たちに訴えて同情を求めるようなことをしないで、不安の儘に、自分の職務や研究に一層身を入れることが大切だと思われる」。(慎重で大胆な生き方、より)  この語は何度読み返してみても、自分にそのままあてはまるように思えます。
私にとって、森田療法との出会いは、人生の転機ともなるのではないかと思える程強烈であり、またありがたく幸運であり、感謝したい思いです。乗り越えるには、今後も山あり谷ありかと思いますが、現在まで来られた喜びとともに、ご指導いただいた皆様に感謝し、あわせて森田への邂逅の幸運を一人でも多くの方に差し上げるお手伝いが出来たらと思っております。

[注]
職場の配転がキッカケとなり、適応不安をおこし、神経症へと陥り、そして、各種の民間療法でも治らず、発見会の門をたたき立ち直っていく経緯が皆さんにおわかりいただけたとおもいます。 苦しいながらも、症状にとらわれながらも会社には休まず出勤し、最低限度の姿勢を保っていたことも、早く立ち直る原動力であったと思いますが、忘れてならないことは、集談会にはほとんど毎回出席されたことではないかと思います。 長谷川さんは文中、問題解決を気分本位で行おうとしたこと、現実を正しく見つめ、その中でベストを尽くすことの大切さを話されておられます。 そして、現在ではご自分の欲求を自覚され、着実に一歩一歩進んでいる様子は私達に多くの励ましになります。 今後、中堅管理職として、また集談会の世話人として、ますますのご活躍をお祈りしております。


  • 症状回復のメカニズム
  • 会員になるとどんなことができるの?
  • 集談会 参加の流れ

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